
【祖父 辻井弘洲】
明治16年生れ 小原流小原雲心に師事した辻井弘洲は、雲心と共に独自に盛花を研究。 大正3年頃、大阪・船場で「弘洲風盛花・瓶華」の家元として認知され、その後、盛花瓶華に関する独自の伝書を完成させ家元としての地位を確立した。
その時代に弘洲が研究し体系化したと言われる「雅整体」は伝書として公表を見なかったものの、多くの人々の注目を浴び今なお「幻の雅整体」と言われ、その研究は辻井博州、辻井ミカを軸とする華道家に引き継がれている。
昭和6年に辻井弘洲 (弘友会主宰) は大覚寺から招聘を受け華務長職に就任。同時に「弘洲風盛花瓶華」を「嵯峨流」として合流。 数年後、嵯峨御流独自の思想性からなる花態である「景色生け自然態応用七景三勝」を発表した。 水の連続した流れから生まれる自然の融和美と、風景を美しく思う心の育成を願った「景色生け自然態応用」は、環境問題を抱えている今日「未来へのメッセージ」として華道界のみならず、生態保全の分野、環境教育の分野、芸術分野など様々な分野から、華道を通じた先駆的な自然への取り組みとして高い再評価を受けている。
嵯峨天皇と空海によって造営された国の史跡名称・大覚寺大沢池では、千二百年前の原風景に修復するプロジェクト「ソウギョバスターズ」が多くの研究者やボランティアの手によって行われた。この大沢池の風景修復にあたっては、七景三勝の一つである「庭湖の景」の花態に表現される原風景への修復が計画目標とされ、華道理念と景観が大沢池で結ばれた。
「自然と共に手をつなぎ 自然をわが心のものにしたい その必然的欲求が生花(いけばな)である」
辻井弘洲 「華道と精神美」(昭和10年弘道第十号)より
【祖父 乃村龍澄】
明治十六年七月十五日高松市西山崎町に生まれる。
八歳のとき香西寺に入寺 明治二十五年末沢龍バン師に従って得度。
頼富実穀師に従って伝法灌頂入檀 明治三十九年東洋大学入学。
明治四十四年三月卒業 明治四十二年香西寺住職となる
大正三年三等巡教師となり徳島県より巡教を始める 以後本山布教師として四十年余全国各地を廻る。
昭和十年樺太、北海道を巡教、療養所大島青松園慰問と布教を開始
昭和十九年香川県仏教会長
昭和二十二年大覚寺耆宿
昭和二十三年高野山真言宗耆宿、同年に大僧正となり
昭和四十二年には大真言宗連盟理事長
昭和四十四年真言宗各派総大本山会より密教教化賞を受ける、大本山大覚寺門跡並びに 真言宗大覚寺派管長となり、併せて華道嵯峨流総裁となる
昭和四十八年四月弘法大師千二百年祭法会のために善通寺にて奉仕
昭和五十年大覚寺寺号勅許千百年の大法要を厳修す
昭和五十二年十二月遷化
春・随感 「風鈴の心」
”春風をもって人に接し、秋霜をもって自ら粛む” という言葉をつくづく味わっているこの頃です。
自坊での七、八人というささやかな生活から、一挙に百人という大家族の中に飛びこんだものの、共に世ぐらしをしていくということは大変なことです。大勢の人に接しつつ相手を生かし、自分も伸びねばならず ー
と考えた時、風鈴を詠んだ”問わず東西南北の風”という句をフッと思い出したのです。
軒先につるされた風鈴は東西南北いずこから吹く風をも、同じように受け入れ、リーンリンと冴えた美しい音色を響かせます。この心が尊いのです。
私たちは往々にして、好きな人、嫌いな人をつくり、美人にはにこやかに接し、借金取りにはしかめっ面で応じます。
つまりこの風鈴の心を忘れ、風の向きによって鳴り方を変えているのです。
あらゆる人に接し、未完成な人に出会った時には、その人を育て引き上げるよう努め、東西南北へだてなく接することが大切なのです。
人の長、または人を導く立場にいる人はもちろん、すべての人が、”風鈴の心”を胸中に秘めて春の風のごとく、のどかにさわやかに人と接してゆきたいものです。
人間関係が円満に公平にまわれば、次は自らの反省が問題になります。
”八風も動ぜず天辺の月”という歌をご存知でしょうか。
荒れ狂う暴風の最中に冴えわたる月を仰ぎ、味おうてみてごらんなさい。黒雲が乱れとび、風がうなり続けても、月は泰然と動ぜず西に向かって進路をあやまつことなく進んでいくのです。
私たちの世にも、苦楽、毀誉 などの世間の八風が吹きすさんでいます。悪口されると”それがどうした”と心が乱れ、”立派ですな”とほめられれば有頂天につけ上がる。商売がうまくいかず借金のやりくりに追いかけられると、人間はヒネクレ、知らず知らずに波風を起こし、金回りがよくなると、女ができたの何のと家庭の不和の原因を生ずる。
不幸に対しても幸運に運んでも、いかなる八風がふりかかろうと、心の動揺のない生活を送れるよう心がけることが必要です。 どうでしょう
あなたのまわりにもめごとやけんかがあれば、そっと”風鈴の心”ですヨ ”八風動ぜず”ですヨ、と声をかけてあげましょう。 五臓六腑に悪しきことなく -
眼は化物(?)ほどに達者、歯は空豆だけがにが手、耳は七割がたの都合よさ、足は杖が逃げていこうというぐらいの気ままさ -
ただ春風の心をもって人に接し、こうこうたる月を仰いで自らをかえりみ、同じカマの生活の人々と共に一山を護持、興隆していきたいと念じています。大覚寺第五十三世門跡 乃村龍澄(四国新聞44年12月号から)
【父 辻井博州】
大正12年 弘洲風盛花瓶華家元 辻井弘洲の二男として大阪に生まれる。昭和11年に弘洲風家元を嵯峨流と合流し、弘洲が初代華務長に就任した後は嵯峨御流華道総司所に入り理事、華道芸術学院長、華務長、副総裁を歴任。
第二次世界大戦後 米国駐留軍夫人にいけばなを指導、昭和31年創立のいけばなインターナショナル(以降I.I.と略す)創立メンバーとなり、弘洲とともに日米修交百年祭に文化使節として渡米し、7ヶ月間各地を巡回。以降世界各国のI.I.支部や世界大会でのデモンストレーターを務め、いけばなを通じて日本伝統文化の普及に貢献してきた。
昭和41年発足の(財)日本いけばな芸術協会で当初から評議員・理事として関わり、平成6年副理事長を務める。
平成3年 大阪府知事より文化功労章、文部大臣表彰受賞。
平成10年秋 勲五等双光旭日章受賞。
【母 辻井ケイ】
昭和2年 香川県高松市香西町 香西寺に生まれる。父・乃村龍澄は第53世大覚寺門跡。
昭和33年辻井博州と結婚、翌34年9月長女ミカ出産。
結婚後 義母・辻井宗月について表千家茶道を習得、現在表千家茶道教授。
30年間 京都嵯峨華道専門学校の茶道教授を勤め、表千家より学校茶道の表彰を受ける。